2010年05月31日
新天地
羽衣新天地をご存知だろうか。私は知らなかった。現在の羽衣町一丁目界隈で、都内(当事は市内)にあった遊郭が、空襲で焼け出されたり、拡張する軍施設用地への提供のため立ち退かされ、軍の施設があり、その手の需要を求めていた立川に移ってきたようだ。ようだというのは、立川史のような本にこの地名の記載のあるものは見当たらず、立川の中央図書館で、それらしい本を探したが探し方が悪いのか、見つからなかった。新天地の写真はあったのだが、説明文はそのことに触れておらず、「朝靄の立ち込める羽衣町界隈」などとなっていた。ネットでも、僅かに掲載されているにとどまっている。終戦間際の昭和20年から、30年代の売春防止法施行までわずか10数年の間にどれだけの人間がここに訪れ、住む人々はどのような生活をしていたのだろうか。私の目にした資料によると、終戦直後の調査で、この場所だけで50人を越す女性達が在籍し、終戦直後は立川基地に駐留していた外国兵たちが大挙して押し寄せるとともに、後年では発展する立川を訪れるさまざまな人間達でかなりの賑わいを見せていたようだ。その資料には、良家の子女を進駐軍から守るため、人間堤防として、閣議で女性達の調達を決めた、などの記載もあった。本当であろうか。

現在の、元・新天地は、普通より巾の広い道路が目立つもののごく普通の住宅街で、商店など目立つものはない裏通りである。ここに夜な夜な数百人の人間が訪れ、それぞれの夜を過ごしていた地にはとても見えない。過ぎた時計は元に戻せるはずもなく、当時の痛みを現在労わる事は出来ない。せめて、当事の女性達が思いのほか、気丈で明るく暮らしていたと信じたい。当事、多摩地域には、立川の錦町にも同様の特飲店街があったほか、時期は前後するようであるが、八王子、調布や福生に「赤線」と呼ばれる施設があったようである。
地図はこちら
現在の、元・新天地は、普通より巾の広い道路が目立つもののごく普通の住宅街で、商店など目立つものはない裏通りである。ここに夜な夜な数百人の人間が訪れ、それぞれの夜を過ごしていた地にはとても見えない。過ぎた時計は元に戻せるはずもなく、当時の痛みを現在労わる事は出来ない。せめて、当事の女性達が思いのほか、気丈で明るく暮らしていたと信じたい。当事、多摩地域には、立川の錦町にも同様の特飲店街があったほか、時期は前後するようであるが、八王子、調布や福生に「赤線」と呼ばれる施設があったようである。
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Posted by 千代吉 at 17:17│Comments(0)
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